「田中一村展」を観るために役立つ知識

「生誕110 年 田中一村展」(広報画像)(佐川美術館) を観るために役立つ知識。   テレビ東京「美の巨人たち」 田中一村作『アダンの海辺』(1969)より。   田中一村(1908〜1977)。本名 田中孝。   無名の画家だった。 一度も個展を開くこともなく、売るための絵を描くことも殆どなかった。 奄美に魅せられて、熱帯の動植物、海、空、 誰も見たことのない世界、誰も描いたことのない奇跡の日本画を。 絹地に岩絵具で描かれた日本画。   アダンとは、奄美大島に自生する亜熱帯性のタコノキ科 (Pandanaceae) の植物。   黄色と朱色に熟した果実。 トゲのある硬く鋭い葉先が四方八方に 旺盛な生命力を弛らせて、伸びている。 背景には海と空。 不穏な黒い雲が湧き上がっている。   驚くべきは海辺の描写。 砂礫の一粒一粒が緻密に描かれている。 使われているのは、鉱物の顔料らしい。

墨の色と白い顔料で描かれた海。 その波を丹念に描いている。   遥か彼方に黄金に輝く空。 「これが私の絵の最終かと思われますが、悔いはありません」。    昭和33年、千葉の家を売り払い、奄美へ移住。 50歳の決断だった。 新しい絵の舞台を求めて、国立療養所奄美和光園へ寄宿。 昭和36年(1961)、有屋の借家で暮らし始める。 野菜を作りながら慎ましく。   一村の1日は散歩から、始まる。 家から山の方へ。いつも同じ時刻に。 彼が見つめていたもの、彼を見つめていたもの、 それは奄美の精霊たちだった。   カメラ(オリンパス)で写真撮影も。画のモチーフにした。 デッサンも数多くした。 その色彩に驚き、感動し、夢中になって筆を走らせた。   葉の一枚一枚の声を聞くように。 一つ一つの生命に触れるように。 一村は丁寧に精密に、描いた。 その自然の激しさに圧倒されながら。 得体の知れない、不思議な力に動かされながら。    ☆ アカショウビン(赤翡翠)=燃えるような赤いくちばしと体全体が赤色を持つことから、火の鳥の異名を持つ。鹿児島県奄美大島の地方名ではクッカルという。漢字の「翡翠」は本来青いカワセミを指すが、色の異なるショウビンにも熟字訓として用いられている。『初夏の海に赤翡翠』   夢は、5年働いて3年描き、個展を開くこと。 そのため、 大島紬の染色工として働く。   数百種類の岩絵の具を東京台東区の「得應軒」から取り寄せていた。 高価な画材を買うために、一杯のお茶さえ我慢して 節約に節約を重ねて働いた。   実際に2~3年、画材を買えなかった時期もある。   染色工を5年で辞め、絵の制作に没頭していく。 そして61歳の時、一つの果実と向き合う。 『アダンの海辺』 奄美へ渡って12年目の作品。 海辺に力強く繁るアダンの木。 葉の緑の色は、一様ではない。 岩絵の具をふんだんに使う。 青に近い緑、黒に近い緑、濃厚な緑、淡い緑、 人知を超えた自然の神秘を、 一村の筆は捉えていく。    千葉市美術館上席学芸員の松尾知子氏は 「水平線から向こうに、遠い世界が金色に輝いている。 何か貴い世界が海の向こうにあると感じさせる風景から、 波が静かに打ち寄せ、そこに光が手前まで煌めいている。   そして自分のいるこちらの世界の砂浜。 その砂粒一つ一つを細かく描いていて、 彼岸と此岸をつなぐ波と砂浜の表現は、 特に力を込めて描いたのではないか」    島に来る前は? 奄美パークに田中一村記念美術館がある。(2001年開館) 若い頃の見事な作品も展示。   彫刻家だった父の勧めで 幼い頃から日本画を描いていた。 7歳で描いた『菊図』(水墨画)大正4年(1915)。 破れの跡は、父がこの絵に手を入れたのに腹を立て、 一村が破ったと伝えられる。   同じ年、児童画展で入賞し、神童と呼ばれた。 『白梅図』大正5年(1916)。   大正15年(1926)、芝中学校卒業、東京美術学校(東京芸大)に入学。 同期に東山魁夷、橋本明治。 3ヶ月で退学。   画壇に属さず、師匠も持たず、 一人で絵画の道を歩み続けた。   中国の南画から水墨画、さらには花鳥画と、 あらゆる日本画を描くことが出来た。 誇りと自負があった。   『白い花』昭和22年(1947)。 青龍舎展で入選。 ヤマボウシの白と葉の緑の爽やかなコントラスト。 囀る野鳥の精緻な描写と、鮮烈な色彩の世界。   しかし、以降、落選が続いてしまう。   松尾氏。 「どこかに弟子入りすることもなく、 独立独歩でいきますと、 当時の趨勢から少し遅れた感じが出てしまった。   次の違う舞台を見つけなくてはいけなかった。   一村は、誰も見たことのない日本画の世界を探そうとした」。   「自分の絵画とは何か?」 「自分にしか描けない絵画とは?」   苦悩と煩悶のなか、その答えを探して、旅を続けてきた。 そして精霊たちに出会った。   『アダンの海辺』について一村は、 「この絵の主要目的は、 乱立する夕雲と海浜の自然の砂礫であった。 これは成功したと、信じております」。    この砂浜をどうやって描いたのか?   松尾氏。 「電気石(トルマリン)ではないか。 (宝石としても使われる。キラキラ光る石。) 画面の中で、砂粒の一粒一粒が、本物の砂浜のように」。

精魂込めた画家の執念。   が、未完成なのかも。 落款がない。   一村はこの絵を、「閻魔大王への土産」 と呼んでいた。   永い永い旅路の果てにたどり着いた世界、 胸を締めつけられるような静かな海辺、 何か緊張を孕みながら、黒い雲が湧き上がっている。 その先には、黄金に輝く空が。    なぜサインが無いのか? 一村のメモによれば、 「それは絵に全精力を費やし果たして、 わづか5秒とはかからぬサインをする気力さえなく、 やがて気力の充実した時に、と思いながら、 今日になってしまった次第なのです」。

  写真家・田辺周一。 「会ったとたん、姿勢を正すような人だった」   一村は昭和52年(1977)逝去。 夕食の支度をしている時に、息をひきとった、という。   『アダンの海辺』は個人所蔵だが、千葉市美術館にある。(寄託)   50歳に島にたどり着いた一村は、発見した。 「ここに描くべき世界がある」と悟った。   輝く命と色彩の光。 奇跡の日本画。 奄美絶唱。 『アダンの海辺』は、7月14日(土)~8月19日(日)まで 佐川美術館で、期間限定で展示されている。    開館20 周年記念 特別企画展「生誕110 年 田中一村展」(佐川美術館) 2018年07月14日(土)~09月17日(月・祝)           

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