column「大観と春草 ー東京画壇上洛ー」 (8/1-10/11)(福田美術館)

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「大観と春草 ー東京画壇上洛ー」
2020年8月1日(土)~10月11日(日)
福田美術館

言ってみれば刎頚の友、言い換えれば大観も描いている「寒山」と「拾得」の仲だったのだろうか。
横山大観と菱田春草。
二人は、共に⻄洋画や琳派などの古美術研究に励み、やがて朦朧体を確立し新しい画⾵を極めていく。

「情熱的で感情派の⼤観に対して冷静で理知的な春草。対照的な性格のふたりでしたが、美術学校の頃より仲が良く、模写へ⾏く時も⼀緒でした。後に⼤観が海外へ渡ることになっても 春草に声をかけて連れ⽴って⾏き、苦楽を共にしながら互いに成⻑します。 しかし春草は眼病を患った上、36歳という若さで亡くなってしまいました」と中村七海学芸員は内覧会で解説。「春草が目を患った時も、大観は何かと介助していました」とも。

「日本画の巨匠、と言えば誰もが横山大観の名を思い浮かべるのではないでしょうか。大観は日本画界のゴールドメダリストと呼んでも過言ではなく、彼の描いた富士山の画は、圧倒的な存在感」(同)を持っている。

が、「大観は、後に日本画の大家と褒められると、『春草の方がずっと上手い』と答えたという。また『(春草が)生きていれば自分の絵は10年は進んだ』とも残している。春草は、伝統的な日本画の世界にさまざまな斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした画家で、岡倉天心もその早すぎた死を惜しんだ」(ウィキペディア)。

同展では、「二人の才能あふれる画家の友情とその軌跡」に焦点をあて、作品の魅力を伝えている。
また、「朦朧体ってナニ?」って疑問も解けるかも知れない。

福田美術館は竹内栖鳳をはじめとする京都画壇が主軸だが、同じ時代を生きた東京画壇の作品も数多く所蔵しており、今回は大観の作品およそ30点と菱田春草の作品約20点に加え、下村観山、川合玉堂ら日本美術院の画家など、福田コレクションの中核の一つを成す東京画壇の名匠たちの作品など約70点を展示している。

またパノラマギャラリーでは、日本画で実際に使用される画材道具や、高価な原料から作られる顔料などを展示し、日本画がどのような材料で描かれているのかも紹介している。



☆ 刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)= 中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事。刎頸の友ともいう。『史記』原文には「刎頸(之)交」とある。刎頸とは斬首のことで、「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という成語として用いられる。


☆ 朦朧体(もうろうたい)または、縹緲体(ひょうびょうたい)= 明治時代に確立された没線彩画の描絵手法。
※名称の由来 日本画の新しい表現の試みであったが、明瞭な輪郭をもたないなど理解されず評論家からは悪意をもって呼ばれた。
※岡倉覚三(天心)の指導の下、横山大観、菱田春草等によって試みられた没線描法である。洋画の外光派に影響され、東洋画の伝統的な線描技法を用いず、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した。絵の具をつけず水で濡らしただけの水刷毛を用いて画絹を湿らせ、そこに絵の具を置き、空刷毛で広げる技法、すべての絵の具に胡粉を混ぜて使う技法、東洋画の伝統である余白を残さず、画絹を色彩で埋め尽くす手法などが用いられた。
※影響 西洋絵画の浪漫主義的風潮を背景とした造形と正面から対峙し、日本画に近代化と革新をもたらした。
朦朧体によって生じる混濁した暗い色彩は、評論家から「幽霊画」と酷評されていた。この弱点を克服すべく大観と春草は、欧米外遊の際、発色の良い西洋絵具を持ち帰り、没線彩画描法を考案した。菱田春草の《落葉》や《黒き猫》、横山大観の《流橙》や《群青富士》等、その後の傑作へと繋がる明瞭な色彩表現を可能にし、大観と春草の試みはようやく肯定的な評価を得るようになる。


☆ 横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年(慶応4年 / 明治元年) – 1958年(昭和33年)2月26日)= 日本の美術家、日本画家。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。(生年月日については記録により小異がある。)
常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。


☆ 菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 – 1911年(明治44年)9月16日)= 明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。
※1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。1895年(明治28年)21歳で卒業すると、同年の秋から翌年にかけて帝国博物館の委嘱を受けて、大規模な古画模写事業に参加、京都や奈良をめぐった。過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く、1898年(明治31年)、岡倉は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も天心と行動を共にして美校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加した。
その後春草は1903年(明治36年)には大観とともにインドへ渡航。1904年(明治37年)には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。1906年(明治39年)には日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作をした。しかし、春草は眼病(網膜炎)治療のため、1908年(明治41年)には東京へ戻り、代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。1911年(明治44年)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため死去した。
兄の菱田為吉は東京物理学校教授、弟の菱田唯蔵は九州帝国大学、東京帝国大学教授。
※画業
春草、大観らは、1900年(明治33年)前後から、従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法を試みた。この実験的画法は世間の非難を呼び、「朦朧体」(もうろうたい)と揶揄された。『菊慈童』『秋景(渓山紅葉)』などが「朦朧体」の典型的作品である。1907年(明治40年)には「官」の展覧会である文展(文部省美術展覧会)の第1回展が開催されたが、この時出品した、色彩点描技法を用いた『賢首菩薩』も手法の革新性のため、当時の審査員には理解されなかった。晩年の『落葉』は、伝統的な屏風形式を用いながら、空気遠近法(色彩の濃淡や描写の疎密で、遠くの事物と近くの事物を描き分ける)を用いて日本画の世界に合理的な空間表現を実現した名作である。このように、伝統的な日本画の世界にさまざまな斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした画家で、岡倉天心もその早すぎた死を惜しんだ。大観は、後に日本画の大家と褒められると、「春草の方がずっと上手い」と答えたという。また「(春草が)生きていれば自分の絵は10年は進んだ」とも残している。


☆ 寒山拾得(かんざん じっとく)= 寒山と拾得は共に詩僧、唐代の脱俗的な人物で、両者とも在世年代は不詳である。
寒山は始豊県西方70里の寒巌幽窟に住んでいたため寒山と呼ばれ、樺の皮をかぶって大きな木靴をはいていたという。拾得は天台山国清寺の豊干(ぶかん)に拾い養われたので拾得と称し、国清寺の行者となった。
ふたりは7世代にわたる仇敵同士の家に生まれたが、豊干はふたりを悟りに導いたという。相交わるようになったふたりは国清寺に出入りし、その食事係となって衆僧の残した残飯や野菜クズを拾い竹の筒にたくわえて食糧とし、乞食同然の生活をした。
時には寺域のなかで奇声・叫声・罵声を発し、時に放歌高吟したり廊下を悠々と漫歩したりして、しばしば寺僧たちを困惑させた。そして寺僧が追いかけると手を打ち鳴らして呵々大笑しておもむろに立ち去ったという。非僧非俗の風狂の徒だったが、仏教の哲理には深く通じていた。
中国語では「寒山拾得」を「和合二仙」または「和合二聖」と称する。両者とも詩作をよくし、ことに寒山は「寒山子詩」と呼ばれる多数の詩を残している。寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の再来と呼ばれることがあり、また師の豊干禅師を釈迦如来に見立て、併せて「三聖」あるいは「三隠」と呼ぶ。寒山子詩を中心に3者の詩を集めたものに『三隠詩集』がある。(以上、ウィキペディアより。)


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