column「小野竹喬・春男 -父と息子の切ない物語-」(10/6-11/23) (堂本印象美術館)

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特別企画展
小野竹喬・春男 -父と息子の切ない物語-
2020年10月6日(火)~11月23日(月・祝)
堂本印象美術館


わずか26歳で戦死。中国湖南省で、小野春男は日本画家として活躍する夢を絶たれた。
出征する直前、婚約者を描いた「女性座像」が絶筆となった。
父・小野竹喬はその画が富山県・養照寺に贈られることになった当時の経緯をその画にしたためている。


小野竹喬は14歳の時、生地・岡山笠岡を離れ、竹内栖鳳に師事するため、堂本印象美術館のある京都、衣笠に移り住んだ。そして27歳の時、文展で特選を受賞した。
息子が筆を持ち始めると「いずれ春男も」、と思っていたに違いない。

戦後、竹喬は雲を多く描くようになった。
「パステル画のようにも見える、明るく清らかな色彩」
「詩情豊かな竹喬の風景画は今も多くの人々に親しまれている」と、山田由希代主任学芸員。
三輪晃久館長は「なぜ雲を多く描くようになったのか、じっくりご覧いただきたい」。


竹喬と春男。その二人の作品展が、ゆかりの地・衣笠で開かれている。
京都では初の親子競演となった。
衣笠には今も小野竹喬のアトリエが残り、そこにも何点か春男の作品が残されていた。

「春男は美術書をはじめ哲学や文学、戯曲書などを読み漁り、作品に昇華させようとしていた」(山田主任学芸員)。
が、時は戦さが続くぶっそうな世の中。庭の植物や自画像など、題材は身近なものが多いようだ。
同展では春男の作品約20点が展示されている。
「春男の模索している絵画の側面が良くわかる」(同)。



竹喬の作品は約50点を展示。戦後「空に浮かぶ雲」が多くなったのは、
「このモチーフは、自然表現の追求であるとともに、春男への想いの表出でもあった」(同)からともいう。
同展図録によると、竹喬は、
「(春男の)魂が空にあるような気がした」(『窓外の雲』毎日新聞)と書き残している。
ふんわりとした空や雲とは対称に、その中にある梢や花木、波や稜線には、鋭さと美しさ、力強さが感じられる。



☆ 小野竹喬(おの ちっきょう)= 1889年 – 1979年は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。

☆ 小野春男(おの はるお)= 1917年 – 1943年12月2日は、京都市出身の日本画家。日本画家小野竹喬の長男。1940年(昭和15年) – 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業  1941年(昭和16年) – 第6回京都市美術展覧会に「樹林」を出品  1942年(昭和17年) – 中国に出征、歩兵第109連隊に所属  1943年(昭和18年) – 常徳総攻撃の際に歩哨に立ち、狙撃され戦死(以上、ウィキペディアより。)


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